夏の怪談 マンションの下の階から聞こえてくる鈴の音
数年前の蒸し暑い夏の夜。
室外機の調子が悪く、冷房も使えずに、ベランダの窓を開けたまま寝付けずに本を読んでいました。
生温い夜風が部屋に入ってきていたし、少し離れた場所にある街道の騒音もそれほど気にはなりませんでした。
後、数時間で夜が明ける時刻。
赤信号が重なるのか、数分に一度、車の騒音が止み、辺りには静寂が訪れる瞬間がありました。
突然、「チリン」という鈴の音が風に乗って聞こえてきたような気がしたのも、そんな一時的な静けさの中でした。
車の音がしていたら気が付かなかったであろう、その音。
風で運ばれてきた、遠くの音のように感じました。
それほど気にすることなく、読みかけの本に目を落としたままでした。
ですが、なぜだか静けさが訪れると、耳を澄ますようになっていました。
すると、やはり鈴の音が聞こえてくるのです。
しかも、その音はゆっくりとですが、こちらに近づいてくるようです。
そのことに気が付いたときには、ゾワっと背筋に寒いものが走りました。
というのも、この部屋はマンションの12階なのです。
鈴を鳴らしている何かは、どうやってここに近づいているというのでしょうか?
さらにこのマンション・・・と言いますか、このマンション群は、郊外のこの辺りでは目立つせいなのか、飛び降り自殺が多い場所として、地元では少し有名なところでした。
その年には、すでに二件の飛び降りがあって、一件はマンションの住人の中年男性。
もう一件は、同じ沿線に住む若い女性なのだとか。
そして、年に数回ある飛び降り自殺のほとんどが夜というのも奇妙なことでした。
近所の方とも、「昼は、下が見えるから怖いのかしら」などと、話していたのを覚えています。
もっとも、それまで霊体験などしたことのなかった私は、それほど深く気にしていなかったのです。
いつの間にか、「チリン」という鈴の音は、ずいぶん近くで聞こえるようになりました。
ここから2~3階下の辺りから聞こえてくるような気がします。
ゾッとしたものの、確かめたい気持ちが勝ってしまい、ベランダに出てみました。
ベランダには、転落防止用の手すりが胸の高さまであるので、下を見るには頭を出して覗きこまなければいけません。
そのとき偶然、近くの薬局でもらった鏡が目に付きました。
安っぽい手鏡で、黄色のプラスチックの枠には、薬局の名前が入っています。
後から考えてみると、田舎の祖母から言われた、
「鏡は、この世ならざるものが映るんだよ」
という言葉を、無意識に思い出していたのかもしれません。
サンダルを引っかけると、手鏡を持ってベランダに出ます。
外は、相変わらず生温い風が吹いています。
手すりで見えないものの、鈴の音はもう足元近くまで近づいてきているように感じます。
私は、左手で手すりの上を掴むと、下の様子が映るように鏡を斜めに持ち、右手を外に向かって伸ばしました。
その瞬間、鏡は何かにもぎ取られるように手から離れていきました。
声にならない悲鳴を上げたまま、急いで家の中に逃げ込みます。
ガラス戸を閉める直前、下の方でガシャンという鏡の割れる音が聞こえました。
これだけの高さから物を落とせば、どんな物でも、それは凶器となりえます。
ですから、本来はすぐ確認すべきなのでしょうが、そのときは気が動転してしまっていて、ベットの中で夜が明けるのを震えながら待っていました。
実は、鏡を奪われる感覚がしたとき、一瞬ですが、暗闇の底から伸びてくる真っ白な無数の手が、鏡に映っていたのです・・・・
これ以来。
夜になると、全ての窓に鍵をかけてカーテンも開けない生活をしています。
もしも、あのとき。
鏡を使わずに、身を乗り出して下を覗いていたとすれば、地面に叩きつけられていたのは、鏡ではなく、私の身体だったのかもしれない、と。
そう思えて仕方がないのです。